(二八蕎麦) 語源の謎

「二八そば」という言葉は江戸時代に出現しましたが、その江戸時代にはすでに言葉の語源が分からなくなり、いまだに結論が出ていないという不思議な言葉です。
江戸時代から現在に至るまでに議論されてきた語源説をみると、「掛け算の九九・十六文価格説」と「粉の配合割合説」、それと「九九の価格から配合割合への移行説(またはこれの逆)」などが主たるもので、いずれも分かりやすい説明になっています。
 十六文のそばを二八(ニハチ)としゃれた九九説は、それ自体に説得力があって理解しやすいですが、先に「江戸時代の蕎麦の値段」で述べたようにそばの値段が十六文であったのは江戸の後期の7、80年間だけでした。それ以前の六文とか八文、十二文など物価と共に移り変わっていく中で出現してきた言葉の説明にはなり得ません。
 もともと二と八(の積)で十六を表している例は他にもありました。角川古語大辞典によると、太平記(1368~75)に「二八の春の比(ころ)より内侍に召されて君主の傍に侍り」とあり、他にも「二八の時」など特に女性の年齢・十六才の異称として使われました。
 配合割合説については、日常の食べ物などを調合する過程で、経験や勘による配合が優先されていた時代のことで粉の分量などは大まかでした。また二八そばだけでなく二六そばも出現しています。そして小麦粉と食塩水だけが原料のうどんでも二八うどん・二六うどん、更には二六にゅうめんなどがあって配合比率ではとても説明することのできない矛盾に突き当たってしまいます。このような例はいくつもありますが、例えば宝暦前の「絵本江戸土産」や文化年間の「東海道中膝栗毛」などに登場する「二六蕎麦」という看板などがそれです。「二八」という言葉の使われ方の推移をみると、そばが十六文で定着してからは「九九・価格」(ニハチ十六モン)で納得されて使われた期間は長いのです。ところが幕末以降の物価高騰で一気に五十文となり、明治には五厘から再出発することになっていよいよニハチの根拠が無くなってしまいます。それで一時期はしかたなく単に「二八そば」という呼称だけが習慣として残ることになります。
やがて、「二八」はそばの品質とか差別化をあらわす使われかたとなり、さらに高品質イメージに加えて、「打つ側も味わう側も」ちょうど頃合いの配合比率であったところから、「粉の配合割合」を表す言葉として、すなわち「二八の割合」という新しい解釈が生まれて現在に至ったのでした。
要するに「二八・十六文の価格」から「粉の配合割合」に移行したとする説は、初めは「九九の二八価格」の時代であったのが物価が高騰していったので矛盾が生じ、次第に「粉の配合割合」を表すように移り変わったとするのですが、文政・天保の十六文が定着してから今日に至るまでの経過ではたしかに説明が付きますが、やはり先に述べたとおり、それ以前にあった八文や十二文の頃の説明にはなっていません。どうしても十六文が出現する以前のことが謎として残ります。このように「二八そば」の語源についてはこれらいずれの説をもってしても、納得のいく説明にはなり得ず、しかもそれ以外でも説得力のある説は現在まで見つかっていないのです。

最終更新日:2012年02月23日

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